LOGIN旗艦店の見学と、メイユーとの昼食を終え、HIMURO MOTOMACHI本社へ戻ったその日の午後――珠希はプロジェクトルームAにいた。
珠希のもとへ、CAD担当者から先週頼んでいたマリッジリングの初回データが届いたのだ。図面をもとに起こされた二本のリングが、画面上で立体的に確認できるようになっている。平面では拾いきれなかった違和感や、実際に身につけたときの不都合を探すため、送られてきた項目を一つずつ確認していく。 ――雪臣さんも、このあと三十分ほど、プロジェクトルームへ入る予定ですよ。 先ほどこの部屋へ向かう途中、トイレで偶然すれ違った瀬原からそう聞かされ、驚いた。雪臣が今日も忙しいことは分かっている。それでも瀬原によれば、初回データを確認するために時間を取りたいと、雪臣が瀬原にスケジュールの調整を頼んだらしい。 CADのデータを開きながら、昼食の席で聞いたメイユーの話が、また頭に浮かんだ。 ――僕に聞くよりあの女性に。 今更八年も前のことを考えるなんてくだらない……と言えばそれまでだ。けれど、……昨夜あったことについて、雪臣と話し合っていない。けれど、今朝の様子を見て、彼が昨夜の行動について、ものすごく悔いていることは痛いほど伝わってきた。それだけで、珠希にとっては十分に思えた。傷つけられたわけではない。 蒸し返さずに、これまで通りでいることを選んでしまった。それで良かったのかは分からない。 ――雪臣くんとなら、この一年、協力しあえると思う。 それでも、あの言葉は嘘ではない。 + + + 今朝のHIMURO MOTOMACHIは、いつになくざわついていた。 珠希と雪臣の入籍が、社内に知らされたのだ。 瀬原が運転する車で会社へ向かう途中。社長室にも、氷室グループ各社や取引先から祝電や花が届いていると瀬原から聞いた。さらに、氷室家でも親族を集めた祝賀の席を調整していると、雪臣が言っていた。 挙式は、氷室百貨店の周年記念を控えて多忙であることを理由に、先送りにしている……しかし、本当の理由は別にある。 一年後には終わる結婚のために、式を挙げるわけにはいかない――それは入籍以前から、雪臣と何度か相談していたことだった。 「珠希さん、おめでとうございます」 会社の中へ入ると、まだ入社して間もないというのに、数えきれないほどの祝いの言葉が飛び交った。お礼を言うたびに、胸の奥に棘が刺さっていく。 珠希の左手にあるマリッジリングも、注目を集めていた。 永遠の愛を誓った指輪――ではない。けれど雪臣と何度も話し合い、二人で作り上げたものに変わりはなかった。 ――この指輪の、その先を見てみたくなった。 雪茂に言われたことが、珠希の中に残っていた。 + + + 「それで、用件は?」 午後。 打ち合わせスペースで、腕を組んだ不二子が珠希の前に座っていた。隣には、少しだけ時間がとれた雪臣もいる。珠希はテーブルに、自分と雪臣のマリッジリングのデザイン画と資料を広げた。 「……この指輪を、HIMUROのブライダルの商品として展開できないか相談したくて」 「――え?」 雪臣が驚いたように珠希の顔を見た。 「
扉を閉めても、下の階からテレビの音が聞こえていた。 雪臣は左手で杖を握ったまま、しばらく動けなかった。 ――何を、した。 この手が、珠希の頬に触れた。肩に手をかけて、顔を近づけた。 彼女は動かなかった。いや、きっと動けなかった。こちらを見たまま、何も言わなかった。その顔を思い出すと、杖を持つ手に力が入る。 明日、甘いものを買う話をしていたはずだ。 自分の言ったことに対して珠希が笑って、それが嬉しかった。けれど、単に嬉しいだけではなく、別の気持ちも同時に湧きあがった。 ベッドへ向かおうとして、イーゼルの前で足が止まった。 数日前から描き始めた、描きかけの絵の中の女性と目が合い、雪臣は思わず視線を落とした。 珠希にこの部屋の中を見られかけたときは、生きた心地がしなかった。こんなものを見せられるはずがない。イーゼルに布のカバーを被せ、フリンジを整える。 雪臣は壁際の収納棚に手を伸ばした。薄紙とデッサン用紙が数えきれないほど重なり、引き出しの底は見えない。 その棚にある絵は、どれも大学時代から、自分の手で描き上げてきたものだった。描かれているのは、どれも今イーゼルにある絵と同じ女性だ。 一枚ずつ確かめる必要はない。雪臣は重なりの中ほどへ指を入れ、何枚かを持ち上げる。その下から、一枚の紙を抜き取った。 そのまま椅子に腰を下ろし、杖を脇へ置く。 「…………はぁ」 長いため息が漏れた。 デッサン紙の左側には、ベンチに腰かけ、水色の服を着た黒髪の珠希が、少し顔を上げて描かれている。その隣は、白いままだった。鉛筆を当てては消した下描きの跡だけが、紙の表面を荒らしている。 ――これだけは、最後まで描けなかった。 描けないまま、捨てることもできないでいる。 かつてこの紙の端に記した九月九日――涙で滲んだその日付を、親指でなぞる。乾いた紙には、今もわずかな波打ちが残っていた。 窓から入ってきた秋めいた風。笑い声。水色のパジャマで、こちらを見上げた珠希。 今夜の彼女の髪は、色もこげ茶で、長さも短い。この絵とは違う。それなのに、あの顔を見た
午後は、いつもどおりだった。 役所と銀行での手続きを終えたあと、二人とも出社し、雪臣は会議へ、珠希はデザイン部へ向かった。帰宅して夕食をとり、順にお風呂へ入った。特別なことは何も起きていない。 ――私、今日本当に、結婚したんだよね? 氷室珠希。今日一日、あらゆる書類にその名を書いたが、何が変わったかと聞かれたら、どうにも答えが浮かばない。入浴前に外した指輪は、寝室のケースにしまってある。今夜はもう外へ出る用事もない。家政婦の三板も帰宅した。もう、誰かの前で雪臣の妻として振る舞う必要はない。なにもついていない左手を見ると、より一層入籍した実感が薄れた。 水色のパジャマに身を包み、珠希はリビングのソファに座ってテレビをぼんやり眺めていた。隣では、雪臣がタブレット端末で仕事の資料に目を通している。彼の薬指をちらりと見ると、今夜もやはりマリッジリングがあった。彼もお風呂を済ませているはずなのに、また嵌め直したのだろうか。それとも、入浴中も外さなかったのか。指輪をつけたまま過ごす人もいるが、彼がいつもつけているサファイアのピアスは、毎晩必ず外していることに気がついた。そのことが、少し気にかかった。 二人の間に会話はない。しかしテレビの中で芸人が何か言うたび、部屋の静けさを紛らわせるように賑やかな笑い声が響いた。 少し前に開けておいた窓から、やわらかい風が入ってくる。入浴後の火照りも、もうすっかり引いていた。 「九月に入ったからか、日暮れのあとはもう結構涼しいね」 外はすっかり姿を変えて、昼間の日差しからは想像できない、秋めいた夜のにおいがした。それでも、夏が終わったと言い切るにはまだ早い。庭では虫が鳴いている。 テーブルの上にタブレットを伏せた雪臣は、なにも言わず、風に揺れるカーテンをじっと見ていた。 「雪臣くん、寒いの?」 「…………いや」 雪臣は膝の上で手を組んで、ほどき、そしてまた組んだ。何か言ってくるのかと思ったが、彼は結局なにも言わずに、今度は黙ってテレビの方へ顔を向けた。 「……じゃあ、そろそろ寝ようかな」 言ってから、もう一度、雪臣の左手を見た。 ……このまま、おやすみ、と別々の部屋へ
役所の戸籍課は、隣の会話まで聞こえそうなほど静まり返っていた。窓口の前では、手続きを待つ人たちが間隔を空けて座っている。珠希と雪臣も並んで腰を下ろし、番号が表示されるのを待っていた。 婚姻届を提出するためだ。 九月九日。なんの記念日でもない、普通の平日。ただこの日、雪臣が午前中に予定を空けることができたから、入籍日が今日に決まっただけ……という話だった。 ――一年限りの結婚だもん、ね。 斜め前のソファに座る男女をなんとなく眺める。男性の肩に頭を預ける女性の、幸せそうな表情。彼らは今日、なにか特別な日なのだろうか。例えば、交際を始めた記念日とか。珠希の誕生日に合わせて、直人と婚姻届を出しに行った日のことをぼんやりと思い出していた。 「そろそろ呼ばれそうだね」 番号札に目を落として、珠希が呟いた。左手には、完成したばかりのマリッジリングが光っている。 今朝、家を出る前に、珠希はその指輪をそっと左手の薬指に通した。 仮初の夫婦であることを周囲に悟られないよう、外では自然な夫婦として振る舞う。それは契約書にも記された、二人の約束だったからだ。 ……けれど、少しだけ引っかかっていることがある。 あの日、雪茂の前で指輪を嵌めてから、雪臣が家の中でもそれを外しているところを、珠希は一度も見ていないのだ。 ――契約結婚のはずなのに。雪臣くんは、誰も見ていなくてもマリッジリングを外さない。 つけ外しが面倒なのだろうか。珠希は雪臣の左手をじっと見た。 「雪臣くん、順番が来る前に、もう一度だけ書き間違いがないか確認してもいい?」 珠希が先に記入を済ませ、雪臣に預けていた婚姻届は、今、彼の鞄の中に入っている。 「…………」 「雪臣くん?」 「あ、あぁ」 「婚姻届、確認してもいい?」 考え事でもしていたのか、上の空だった雪臣にもう一度言う。 雪臣はすぐに鞄から婚姻届を取り出した。珠希が預けたときは空欄だった夫側にも、しっかりと記入されている。 そのときふと、雪臣の生年月日が目に入り、思わず「え」と声が漏れた。 「雪臣くん、今年で二十九歳な
氷室家の本邸を訪れるのは、顔合わせの日以来だった。そのときはまだ、HIMUROへ入社もしていなかった。ほんのひと月ほど前の出来事だというのに、なんだか懐かしく感じてしまう。 応接室には、雪臣の祖父・雪茂だけでなく、父の秋夫と継母の日美呼、そして異母弟の悠乃介も揃っていた。以前、日美呼にも実力を見せてもらいたいと言われていた以上、全員の同席は予想できたことだった。 雪臣が二人で必ず作り上げると宣言した『期待を超えるジュエリー』を、ようやく形にすることができた。雪茂がどう評するかは分からない。けれど、雪臣と二人で作り上げた、全力の二本に変わりはなかった。 ソファの隣へ腰かけていた雪臣が、テーブルの中央に小さなリングケースを置いた。 「これが、僕と珠希さんの答えです」 雪臣がそっと蓋を開く。 雪茂はすぐには手を伸ばさなかった。身を乗り出し、ケースの中をしばらく眺めている。 「おお、これは……! 雪臣、でかした――」 最初に口を開いたのは、秋夫だった。その声に被せるように、日美呼が喋り出す。 「さすが、雪臣さんと、元・INUI Jewelryの珠希さんですわね。一本ずつはとても素晴らしい。……しかし。邪道とまでは言いませんけれど、これでは、老舗・HIMURO MOTOMACHIに相応しい、二本で一組の結婚指輪に見えないのではないかしら」 雪臣と何度も話し合い、互いの手に合わせて作った指輪だ。形が違うことにも、説明できる理由がある。 「同じ形に揃えることが、私たちにとっての一組ではないと考えました」 珠希は、リングをひとつずつ示した。 「私のリングは、婚約指輪の石座に当たらない形です。雪臣さんのリングは、杖を握るときに負担になりにくい幅と厚みにしました。それぞれ一本で完成し、並べると二つの曲線が新しい流れを作ります」 「なるほど。つまりはお二人だから成立する特注品という意味ですわよね? ねぇ、あなた」 「あ、あぁ……そうかもな……」 納得していない顔の日美呼が秋夫に視線を向ける。秋夫は困ったように眉を下げていた。 「HIMUROのデザイナーとしての実
研磨機の回転音が、アトリエに低く響いている。 母と雪臣が初めて顔を合わせてから、二週間あまりが経った。 あの日のことが、二人の間で話題に上ることは特になかった。それでも雪臣は、ときおり母の体調を珠希に尋ねてきた。特別な扱いをするわけではない。けれど、彼が母ときちんと向き合ってくれたという実感は、珠希の中に確かに残っていた。 婚姻前の記念として、雪茂から制作を求められたジュエリー――珠希と雪臣、二人の指輪も、完成へと近づいていた。修正後のCADデータを確認してから、原型の出力、細かな調整、鋳造と、これまでいくつもの工程を重ねてきた。 そして今日、二本のマリッジリングは、ようやく最終研磨の日を迎えることになったのだ。 なにかがひとつ進むたび、契約の話でしかなかった結婚が、少しずつ現実味を帯びてきた。隣にいる雪臣は、今、なにを思っているのだろうか。 「綺麗……」 ほんの小さな環を前に、思わず呟いた。職人がリングを研磨用の円盤へ慎重に当てるたびに、白く曇っていた地金の表面に、少しずつ光沢が生まれていく。 「仕上がりました」 職人が布の上へ並べた二本は、形こそ違うが、表面の高低差がひと続きの流れを作っている。 「雪臣くん、左手、貸してくれる?」 雪臣は近くの椅子に腰を下ろし、杖を右手に持ち替えて、ゆっくりと左手を差し出した。珠希がその手を取った瞬間、彼は反射的に手を引っ込め、右手から杖が滑り落ちた。カツン、と床を叩く音が響く。 「ど、どうしたの? 大丈夫?」 「申し訳ない」 珠希が床から杖を拾って渡すと、雪臣はただ気まずそうに下を向いていた。 「もう一度」 珠希は雪臣の手を取り、リングを薬指へ通した。 「平気そう? きつくない?」 「…………」 左手の薬指に嵌った指輪をじっと見つめている雪臣の瞳が、小さく揺れ動く。 「雪臣くん?」 「あぁ……大丈夫だ」 「よかった。私の方も確認してみよう」 珠希は婚約指輪を一度外すと、マリッジリングを自分の薬指にさっと嵌め、その上から再び婚







